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日露戦争を現代より振り返れば、日露戦役は日本の運命を決定するターニングポイントであった事が分かる。幕末期より陸の王者ロシア帝国の南下に怯えていた日本は、西洋文明を列強国から取り入れ、列強国の時流に乗る富国強兵を目指し、極東アジア諸国を席捲する大国へと成長した時代であった。
明治27、28年、朝鮮半島に於ける覇権をめぐり、日本と清国は衝突し、日清戦争が勃発した。日本はこれに大勝したが、露国、独逸、仏国の三国干渉によって、三国の軍事力に屈服し、遼東半島を返還した。そして、明治33年(1900)、清国東北部に於いて北清事変が起きると、ロシアはシベリア鉄道と自国民を守る名の下に、清国満州にロシア軍は強硬出進した。日本をはじめ欧米列強の抗議にも動じず、ロシア軍は満州の野に居座わり、このロシア軍の居座続ける事によって、何度も日露交渉が行われたが解決策はなく、その沿線上に於いて日露開戦につながるのである。
ロシア国の満州領有は本格化してやがて朝鮮半島にも手を伸ばし、日本国に迫ってくるのではないかという不安視が増した。日本政府は安全保障のため満州・朝鮮半島からロシア軍を追い出すことに、国を挙げて軍力に傾けた。日本の近代軍事力はそれに伴って富国強兵となり、その結果として極東地域の欧米列強との植民地利益地が衝突することになる。ロシア、英国、仏国、米国等と列強国外交交渉が次々と難問の課題が起こるが、明治政府終脳たちの活躍により解決する歴史を刻む時代であった。
日清・日露戦争についての戦記物語には優れた著書が多々あるので、それらの書籍に譲り、日露開戦時の日本国を取り巻く欧米列強国の外交・意図・思惑・策略・策謀はどのよう動いていたのか、その点の外交史を探ってみたいと思う。
明治政府は日露開戦同時期に、この戦争は短期決戦による限定戦争と想定して、そのシナリオに添って軍事を背景に行動を起し、そして欧米の世論喚起の広報活動を積極的に繰り出して米国世論の説得に当たった金子堅太郎、日本の戦費外債募集を英国£・米国$を調達した高橋是清、ロンドンを中心に「黄禍(こうか)論」の払拭に末松謙澄、ロシア帝国後方撹乱に走った明石元二郎・石光真清等の活躍も探りたい。又、乃木希典無能説や、通信、シベリア鉄道、日露戦争前夜の列強国の立ち位置や、ポーツマス日露講和会議の息詰る外交交渉の経緯も掘り下げてみたい。 |